鏑木清方 Kaburaki Kiyokata
明治11年<1878>-昭和47年<1972>東京都出身
上村松園、伊東深水らと並び称される、近代日本における美人画の大家。本名は健一。父はやまと新聞の創立者・条野採菊。水野年方の門下に入り、16歳頃より新聞や雑誌の挿絵を描き始めました。1901年、山中古洞らと烏合会を結成し、新しい美術運動に参加。文人との交流も深かったため、文学への造詣が深く、島崎藤村の『破戒』や、菊池幽芳の『百合子』、泉鏡花作品の挿絵などに多くの秀作を残しています。1907年頃から文展、帝展を中心に制作活動を続け、1927年に名作「築地明石町」を発表。帝展日本画審査委員(1919年)、帝国芸術院会員(1929年)、帝室技芸員(1944年)を歴任し、1954年には文化勲章を受章しました。