橋口五葉 Hashiguchi Goyo
明治14年<1881>-大正10年<1921> 鹿児島県出身
モダンでエロティシズム漂う美人画から、”大正の歌麿”と称された大家。本名は清。1905年、東京美術学校西洋画科を首席で卒業。在学中より雑誌「ホトトギス」に挿絵を描き、それが夏目漱石に認められ「吾輩ハ猫デアル」の装丁で脚光を浴びると、1911年に三越呉服店の懸賞ポスターに応募した「此美人」が第一等に選ばれ、さらにその名を高めました。大正期になると、学生時代から興味を持っていた浮世絵研究を本格的に始め、1914年の「美術新報」に研究論文を発表します。浮世絵研究と同時に、木版画制作に傾倒していくなかで、版元・渡邊庄三郎と知り合い、1915年に新版画運動の記念すべき第一作「浴場の女」を制作しました。その木版画制作への情熱から、1918年より版元を離れ、自ら彫師と摺師を抱えて制作するに至りましたが、1921年に41歳で早世。残した版画作品は渡辺版も含めてもわずか14点、没後に版木が受け継がれ完成した作品も7点に過ぎません。